過疎化が進んでいたあるいはしかし

ナポリ風スパゲッティはあっても

色々説明してくれると思いますので
しかし交通の便は悪く、さほど遠くないはずのフィレンツェからでも、長距離バスに乗って途中のポッジボンシで一度乗りかえる必要があるそれでも、とくに一九九〇年に世界遺産に登録されてからは、日本人観光客の間でも高い人気を誇っている。
なにしろ街の端から端まで歩いても一五分とかからないほど小さな丘の上に、一五本もの塔がニョキニョキと立っているのだ。
しかつては七二本もの塔がこの狭い中にひしめいていたというのだから、かし、つくづく変わった街だ。
そのとおり、この街で面白いのは、歴史上の人物たちや芸術作品よりもむしろ、街自体の姿とその歴史である同じエトルリア人が西隣に作った街ヴォルテッラの支配下にあった。
古い起源を持つこの街は最初、サン·ジミニャ!がしかし長い時間をかけて、徐々にヴォルテッラの影響から脱していったのは、ローマからシエナやピサを通ってフランクへと続く通商路が、このような辺鄙な山の中をうねうねと通っていたおかげである。
ここでは、旅に疲れた商人たちがしばしの休息をとった。このフランチジェーナ街道を通って、はるかイギリスまで旅したカンタベリー大司教シゲリックによる九九〇年頃の投宿記録が残っており、rSceGenianeサン·ジミニャーノも投宿地のひとつとして登場する。
その中に街はサフランを主力商品に徐々に経済力をつけて、ヴォルテッラに反旗を翻すようになり、一一九九年、コムーネとして実質的な独立国となった。
しかしほどなくヨーロッパは、先に述べたような、法王派と皇帝派にわかれての分裂状態に突入した。

アマルフィはこの地の利を生かして、他からの支配を受けることなく、早くから港町として頭角をあらわした。
他のイタリア諸都市が自治都市国家コムーネとしての体裁を整えるよりも先に、アマルフィは海路を整備して地中海全域へと乗り出した。
羅針盤はもともと中国からもたらさヨーロッパではながくアマルフィの発明と信じられていた。
れたものだが、実際、その後の大航海時代を支えるにいたるレベルにまで羅針盤の技術を発展させたのは、アマルフィが主導権を握っていた時代の地中海航路の船乗りたちである。
そして、大航海時代に入って巨大化する前の海洋貿易で主力だった”Rレー船”を発展させて駆使したのもまた、アマルフィの船乗りたちであった。
さらに、アマルフィ共和国が作った海運法”TabulaAmalplitana”は、今日の海運法の基礎となっている。
アマルフィにはその当時もっとも優れた船乗りたちが住んでいたので、当時知られていた世界のあらゆる地域から、商人たちがやってきた。

イタリア語も出来ないので

ミラノで傑作でもあり

(グリエルモ·ダ·ブーリア、ロベルト·グイスカルド武勲詩、一一世紀末、原文はラテン語、筆者訳)グリエルモ·ダ·プーリアアブーリア南イタリアを席巻したノルマン人たち、は、なかでもロベルト·グイスカルド(ロベルト·ダルタヴィッラ·イル·グイスカルド、.”1レ.日本ではフランス語読みのロベール·ギスカールの名で知られている)の年代記を書いた人である。
そこからうかがえる通り、アマルフィ海運共和国は10.1世紀に最盛期を迎えた。
彼らは地中海の制海権を手中にし、エジプトやトルコなど、はるか遠方まで商船を派遣した。
東方からもたらされたじゅうたんあらゆるもの|紙やコーヒー、絨毯など-は、すべてアマルフィを介してヨーロッパの各地へともたらされた。
南イタリアにやってきたノルマン人やアラブ人は、皆一様にアマルフィの繁栄ぶりに目を見張った。

ヨーロッパは


イタリアの真実であるこれだけ経験を積んでくれば

町の守護聖人であまつる聖アンデレを祀ったサンタンドレア大聖堂ドゥオーモは、町のサイズに不釣り合いなほど大きく華麗で、おまけにその正面を飾る青銅扉は、わざわざコンスタンティノーブルで鋳造して運ばせたものだ。
こうして、ありあまる資金が湯水のように投下されて、あらゆる広場と主要な建物に華麗な装飾が施された。
交易先の各地に対しても投資がなされたとえばエルサレムにはアマルフィ人専用の病院まであった二000床もの規模を誇っていた
アマルフィは地中海一の海運国として、わが世の春を謳歌していた。
しかし永遠に続くかと思われた繁栄は、急速な衰退期を迎えてしまう。
一二世紀に入ると街は地震に襲われ、さらにピサ軍からの11度にわたる挑戦をうけた。
航路のほとんどを失ったアマルフィは、特殊な地形のせいで内陸部への独自の販経済の表舞台から一気に退場するはめになってしまった。
路を持たなかったため、その後のアマルフィを待っていたのは、他国の支配下における小さなしがない漁村としての地位に甘んじる、屈辱的な数世紀であった。
今日、アマルフィはヨーロッパ有数のリゾート地として、世界中から観光客を集めている。
しかし、現在のこぢんまりめここがかつて地中海全域を支配した強国であったことなど想像もつかない。
とかわいらしい街の姿を愛でる人々には、たr天国の回廊だ、大聖堂奥の高みにある,と呼ばれる墓地に眠る霊たちだけは、数百年の忘却と静寂をへて、この地に訪れた久方ぶりの喧騒にさぞかし驚いているに違いないSanGimignanoサン·ジミニャーノ11塔の街四世紀に生きたモデナ出身の司教の名を戴くサン·ジミニャーノは、中世の面影を残す塔の街として有名だ。

その東部に位置するエリトリア

ローマが帝国としての威容を整えたのが大体2千年前の話

しかし交通の便は悪く、さほど遠くないはずのフィレンツェからでも、長距離バスに乗って途中のポッジボンシで一度乗りかえる必要があるそれでも、とくに一九九〇年に世界遺産に登録されてからは、日本人観光客の間でも高い人気を誇っている。
なにしろ街の端から端まで歩いても一五分とかからないほど小さな丘の上に、一五本もの塔がニョキニョキと立っているのだ。
しかつては七二本もの塔がこの狭い中にひしめいていたというのだから、かし、つくづく変わった街だ。
そのとおり、この街で面白いのは、歴史上の人物たちや芸術作品よりもむしろ、街自体の姿とその歴史である同じエトルリア人が西隣に作った街ヴォルテッラの支配下にあった。
古い起源を持つこの街は最初、サン·ジミニャ!がしかし長い時間をかけて、徐々にヴォルテッラの影響から脱していったのは、ローマからシエナやピサを通ってフランクへと続く通商路が、このような辺鄙な山の中をうねうねと通っていたおかげである。
ここでは、旅に疲れた商人たちがしばしの休息をとった。このフランチジェーナ街道を通って、はるかイギリスまで旅したカンタベリー大司教シゲリックによる九九〇年頃の投宿記録が残っており、rSceGenianeサン·ジミニャーノも投宿地のひとつとして登場する。
その中に街はサフランを主力商品に徐々に経済力をつけて、ヴォルテッラに反旗を翻すようになり、一一九九年、コムーネとして実質的な独立国となった。
しかしほどなくヨーロッパは、先に述べたような、法王派と皇帝派にわかれての分裂状態に突入した。

ローマの7つの丘のひとつに数えられるカピトリーニに建つ美術館


これは大いなる誤解で
半島中のあらゆるコムーネが、どちらの勢力につくかの意思表示を迫られ、サン·ジミニャーノもそのただなかに放り込まれた。
トスカーナ地方の両雄であるフィレンツェとシエナは、それぞれゲルフとギベリンの領袖となった。
間に挟まれた格好のサン·ジミニャーノは、はたしてどちらの勢力につけば有利なのか壁の外の様子をおそるおそるうかがいつつ、城壁の内側では陰惨で執拗な勢力争いが始まった。
両派の家々が、それぞれ競いあうように高い塔を建て始めた。塔の内部はがらんどうでフロアもなく、ただ四方にぐるリと階段がついているだけのものである。
つまりそれらは、防衛や監視のためというよりは、塔と塔の間に木製の通路をわたして、有事の際に同じ派閥の家系がより早く安全に集まるためのものだった。
そしてもちろん、単なる権勢の誇示のためにも、塔には高さが求められた。
高さ競争を落ち着かせるために、一二五五年には、市庁舎のロニョーザの塔よりも高くしてはならぬという規定が出された。
塔は増え続け、こうして街は世にも珍しい塔だらけの街となった。一三00年、ここをダンテが訪れる。ゲルフ勢力のフィレンツェ大使として、五月八日に市のホールで演説をおこなった。
これを記念して、そこは今日ダンテの間と呼ばれている。
ローマ帝国が崩壊したにもかかわらず

ブレフェットゥーラ県庁

詩聖ダンテはこの地の芳醇な白ワイン「ヴェルナッチャ·ディ·サン·ジミニャーノ」今日でも同名のDOCGとして残っているがいたく気にいったようで、後に亡命中神曲の中で、あたかも浄めの力があるような飲みものとして詠っている。
にしたためたその向こうに見えるやつれし顔は、かつては教会をその手に抱く者であった。
彼はトゥールーズから来たれり(注:しょくざ.つまり、教皇マルティヌス四世を指す)。
今や贖罪のために、ボルセーナの鰻とサン·ジミニャーノのヴェルナッチャ以外は口にせず(ダンテ·アリギエーリ、神曲煉獄篇,第二四歌XX-XX-V’筆者訳)塔の街は内部抗争を時おり続けながらも次第に発展していった。
一四世紀初頭には、市庁舎内のホールポデスタの間の壁に、メンモ·ディ·フィリッブッチョとその工房によって、《結婚の諸場面》という一風変わった絵が描かれた。
そこには、大きな樽状の風呂に揃って裸で入浴している夫婦の姿がある。
その隣では、ひと足先にベッドで待つ妻の隣へ夫が今まさにすべり込まんとしている。
ポンペイ壁画のような、キリスト教化以前の時代のものならいざ知らず、寺弋キリスト教中世にあって、これほどあからさまに性的主題を扱った絵画は珍しい。
しかし、市庁舎のホールに描かれている事実が示しているとおり、これは大真面目な教育目的以外のなにものでもない。
これらの場面は、これから夫婦にならんとする若者たちに、夫婦とはどうあるべきかを視覚的に教えるためにこそ描かれたのだ入浴シーンがあるだけでも、中世絵画としては珍しい。
そもそも中世では入浴の習慣が一般的ではなかったためでありつまりは入浴が、結婚という特別な日にこそおこなわれる一種の儀式となっていたことをうかがわせる。
このように同壁画は、当時の庶民の一生をうかがい知るための貴重な資料となっている。
一三四八年にはペストが街に壊滅的な打撃を与える.そしてその直後の塔の街の平安も長くは続かなかった。
しかし、あっという間に街を占領してしまった。山向こうのフィレンツェが進撃してきて、一三五三年には、こうむすでにサン·ジミニャーノフィレンツェも同様に、大銀行家の相次ぐ倒産やペストの伝染で大打撃を蒙ってはいたが、「占領地内フィレンツェはここを治めるための砦を築いた。
こうしたとは比べものにならない規模の国家となっていた。

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