翻弄されていく

敗者復活制度があって常に社会が刺激を受け

米を使ったリゾットがいわば地元料理でと異なり、街の内部とのアクセスが非常に制限されてい部を監視するための砦」は、一般的な外敵から守るための砦つなるという特徴を持つ。
ここの砦も、街とは一本の橋と堅固な扉一枚で繫がるのみである。加えて一四六三かつて有していた重要性をすべて失ってしまった。サン·ジミニャーノはフィレンツェの属領となり、その後ペストの再度の大流行は、サン·ジミニャーノが自治都市として復活する芽をすべて摘み取ってしまった。
年、1本また1本と数を減らしていった。あるいは改築されて、塔は崩落するにまかされ、という条例を発したのである。
都市塔をこれ以上減らしてはならぬ、しかし一六〇二年、街はある重大な決定をする。
景観の保存という概念や、ましてやそれが将来的に観光資源となる可能性になど誰も思いつきさえしなかった時代にあっそれでもそのおかげで街は、今日でも残念ながら一五本にまで減ってしまっていたが、て、これは驚くべきことである。
として、世界中から訪れる人々を中世の空間へといざなっているのである。
屠の街る地面Cefalùチェファルー岩塊の麓で毎年大晦日の夜になると、子どもたちが心躍らせながら玄関先に立っている。
チェファルーの街では、一年に一度、この夜だけ、街の背後にある岩山の上から魔女が降りてくるのだ。
彼女はあまりにも悪さが過ぎたので、罰としてその日以しわ外はずっと岩山から出られない。
街の若者たちはこの日に備えて、皺だらけですきっ歯の、醜い老婆とその夫の人形をほうき作って箒を持たせる。
彼らはブリキの空き缶をいくつもくっつけて、それから、ガラガラと騒々しい音をたてながら街を練り歩く。

スペインのセビリアやフランス南部に残る水道橋

魔女に扮した者たちは、道で子どもを見つけると、なまはげよろしく近づいて、「早く寝ないとお菓子をあげないぞー」子どもたちはキャーとかん高い悲鳴をあげながら、と脅してまわる。
ちゃっかりとお菓子をもらって嬉しそうに一行を見送るのだー。一月六日にイタリア全土でおこなわれる、いわゆるエピファニアを1週間先取りしたかのようなこの公現祭”ヴェッキア·ストリーナチェファルーに伝わる伝統行事である。
VecchiaStrina祭”は、そのストーリーは、岩山がこの街に住む人々にとって大いなる脅威であり、また同時に守護者でもあった歴史をよくあらわしている。
たしかに、この街を説明するには、”街の裏に岩山が迫る”という生やさしい表現では物足りない。
高さ二五メートルを超すそれは巨大な岩の塊で、なだらかな丘とは異なり、周囲を絶壁で囲まれている。
あたりが見晴らしのよい海面なだけに、その突出した大きさと形状は異様で、人々はまるでその庇護にあずかるかのように、絶壁のすぐ下の狭い平地に並んだ小さな家々で肩を寄せ合って住んでいる。
遠目からでも、街のシンボルである大聖堂のシルエットがよく見えるが巨大なはずの大聖堂も、すぐ横にある岩山と比べればまるでかわいらしいミニチュアのようだ。
東へ車で1時間ほど。アフリカ北岸のカルタゴが造った植民都市という説もあれここはパレルモから海岸線に沿って、ば、ギリシャ人の手になるものと考える人もいる。
確かなのは、紀元前九世紀頃にはすでにこの地に人が暮らしていたことであり、後世に改修されたものとはいえ、岩山の上に残るディアーナ神殿の遺構がこれを証明している。
日本で国際運転免許証を取得しておきましょう

ミラノを結ぶ街道沿いの町として

これによりポンペイ軍壊滅に成功岩山からは水が湧いたため、この地に古くから人々が暮らすことを可能にした。
そして岩山を取り囲む絶壁は、天然の要害として、敵の侵入の際には街を守る要塞と化した街はその後、ローマに支配され、中世になってからはアラブ人がここを拠点とした。
徐々に人口が増え、岩山の上には砦が、ついで城が建てられた。まさにこの岩山は人々にとって生命の源であり、守護者であり続けた。
彼らがそれに畏敬の念を抱いてきたのも当然のことである。こうして岩山は、最初は処女神が暮らす場所と考えられ、それがいつのまにか魔女の棲む地とみなされたのだ。
アラブ人はここを拠点のひとつとして、シチリア全土を征服することに成功した。
しかしこの街が歴史の表舞台に華々しく登場するには、ノルマン人の王たちがここを整備した一一世紀まで待たなければならない。
ヴァイキングの末裔である彼らは、はるか北フランスのノルマンディー地方から海を渡ってやって来た。
そして伝説がつたえているのは、初代シチリア王となるルッジェーロロゲリウス二世が、この地に教会を建てる誓いをたてた次のような物語である。

フィレンツェの男と女として公認された

カルタゴはとっくに皮製の通貨を持ち
ルッジェーロ王は、チェファルーの街をたてなおし、救世主イエスに捧げる教会の建立を1一四五年四月に命じた。
かつてナポリからシチリアに戻る途中、こうして王は、おそろしい嵐にみまわれた際、神に救いをもとめてたてた誓いを実行した。
それから王は教会に莫大な寄進をおこない、またチェファルーの市民たちに、あらゆる兵役の義務の免除や、出入国の際の関税の免除といった特権を与えた。
(アントニオ·ブサッカ、事典、一八五八年、筆者訳)実際には、ルッジェーロが王位に就いた翌年一一三一年の建立と考えられているが、ともあれ、こうして決して大似つかわしくないほど巨大な大聖堂ができあがった。
きくないチェファルーに、シチリアにあるノルマン建築の代表的作例であり、内部は一見簡素だが、内陣上部にあるきらびやかなモザイクでできたキリストの巨大な顔が、身廊で祈る人々を上方から圧倒する。
おそらくここには初期キリスト教時代の教会があったらしいが、ルッジェーロ王によってすっかり姿を変えられて以来、今日に至るまで街のシンボルとなっている。
彼はシチリア王として国の基盤整備に奔走したため、ルッジェーロ王は、大聖堂の前の広場に自らの邸宅を建てた。
こしかし、今日のチェファルーのほとんどを作ったルッジェーロの名は、こにいた時間はそれほど長いものではないだろう。
街の南北を貫く目抜き通りの名として今も残っている。ここは、一九世紀に生きたエンリこの街を訪れたら、マンドラリスカ博物館にもぜひ足を運んでいただきたい。
イタリアの海といえば

イタリアではあれが一月近く続くと思えばよい

さて、彼のコレクションは考古·ビライーノ·ディ·マンドラリスカ男爵が集めたコレクションを展示している施設である。
コ彼の博物学的関心の広さと当時の分類法などを教世界中から集められた貝殻などは、学から科学分野まで多岐にわたる。
えてくれるイタリアで初めて油アントネッロ·ダ·メッシーナによる《男の肖像RitrattodiIgnoto》は重要である。
なかでも、小さな画面ながらも、生きているかのよ彩技法をものにしたという画家アントネッロの数少ない現存作のひとつであり、うな迫力をもって男が視線を投げかける。
この作品について、「この男の特徴は”誰二0世紀の著名なエッセイストで政治家でもあったレオナルド·シャシャは、と述べている。
あなたにも、画家自身にもそう、誰にでも」にでも似ている“点にある。
私にも、しばし魅せられてしまうに”既視感“とその思わせぶりな微笑に、きっとあなたも、この小さな肖像画が放つ不思議な違いない。
Materaマテーラほら穴に生きた人々ろうと状のそれらはサッシと呼ばれている。
中略それらの形は、学校で習ったダンテの神曲の地獄篇を思い起こさせる。
私も、ウネウネとした小道を底の方まで降り始めた。曲がりくねった道はとても狭く、家々の屋根を伝って下へと続いていた。
もしそれらのことを家と呼べるなら、だが。中略むきだしの岩肌を壁にした薄暗い洞穴のなかには、ボロ布がかけられた、みすぼらしい家財道具とベッドがあるきりだった。
床には、犬と羊、ヤギや豚が寝そべっていた。どの家でも、男も女も子どもも家畜も、洞穴のひとつに皆が住んで一緒に寝ていた。
このようにして、二万人もの人々が暮らしているのだ。(カルロ·レヴィ、キリストはエボリにとどまりぬCristosièfermatoaEbolir一九四六年、筆者訳)戦後すぐ世に出たレヴィの本によって、イタリアの人々はマテーラの洞窟住居のことを初めて知った。
彼らは、マテラの人々の暮らしぶりにショックを受けた。

もし大学へ行こうと思えば

フィレンツェに工房をもち通称ヴェロッキオ親方の弟子だった
大戦に対する反省もあって、イタリアの近代化を急ごうとしていた多くの人々の目には、それは葬り去るべきイタリアの恥部として映った。
さかのぼ人々に”前近代的“とみなされたのも無理はない。マテーラに人々が住み始めた時期は、はるか旧石器時代にまで遡ることができるのだ。
今でこそあたりはなかば砂漠化しているように見えるが、かつてマテーラの高原は木々の生い茂る森林地帯だった。
眼下には川が流れ、谷の斜面は柔らかな凝灰岩でできている。そこにはすでに、いくつかの天然の洞窟があった。岩肌は夏には涼しく、冬は風雪から人々をまもった人々はそこに住み始め、家族が増えると、斜面にほら穴を穿って、横穴式住居を拡げていった。
家族の規模がもっと大きくなると、上や下へとほら穴を延ばした。人々はさらに横や奥へ、こうして穴は中で次第に複雑な構造を持つようになっていった。
渓流の水位が下がっていくと、人々は雨水や地やがて一帯の樹木が減り、下水をためておく部屋をつくり、そこへ効率よく水を集めるための導管を整備していった。
マテーラの外でいかなる変化がおころうが、人々はかたくなにこの生活スタイルを変えなかった。
ほら穴から出た人々によって,あるいは他から移住してきた人々によって、丘の上に都市が築かれるようになっても、多くの人々が洞窟の中にとどまった。
マテーラの人口は1万人を突破した。一六世紀には,やがて高台の都市と洞窟住居にすむ人々の間には、明確な貧富の差が生じるようになった。


これによりポンペイ軍壊滅に成功 ローマ時代には ローマ時代には

Tagged as: , ,