意外と知られていないのが

イタリアとシチリア島全域を今も覆うマフィア組織の起源が

その教育のもと育った者がのちに

高位聖職者たちは身を翻して教皇に恭順を示し、皇帝と主従契約で結ばれていた領主たちは独自に会議を開いて、破門されてから1年以内に皇帝の破門が解かれなければ、自動的に退位となることを決議してしまう。
最初は圧倒的な優位にいたはずの皇帝はこうして窮地におちいった。
万策尽きた皇帝に、退位期限があと1か月までカノッサの屈辱一0七七年一月末に起きた。
あたり一帯は雪で白く覆われていた。迫って来る事件は、こうして城内には、教皇とクリュニー修道院長ユーグ、そしてトスカーナ辺境伯の女領主でカノッサの城主であるマティルデがいかぶとはだし雪が舞うなか外套も着ずに裸足で突っ立っていた。
た。丘の下では皇帝が、王冠も兜も剣ももたずに、反省と恭順を示すみすぼらしいボロきれだけをまとっていた。
この姿はマティルデの心をうった。ため、マティルデは皇帝に、彼を助けることを約束して、丘の上の城塞へと向かった。
皇帝はそのまま丘の下にとどまった。マティルデは教皇と話し、皇帝の意を伝えた。なかなか赦そうとしない教皇に対し、マティルデは語気を強めて説得にかかる。
マティルデは当時三一歳。トスカーナ侯ボニファチオの家に生まれるが、父と姉と兄がいずれも亡くなったため、辺境伯の領主となっていた。
母ベアトリーチェはロレーナ公ゴッフレードと再婚し、彼の連れ子彼もゴッフレードというとマティルデも一0六九年に結婚した。
しかし息子を死産し、結婚生活は11年続いただけで別居。それからは教皇を軍事面で支える女闘士として、つねにその傍らにいた。
教皇とマティルデが肉体関係にあると非難する文書さえ出されたことがあった。
皇帝側からは、そば側にいた修道士ドニゾーネによって年代記,詩集として書き残された。
彼女の一生は、この書はマティルデの生前にほとんど完成していたが、マティルデ本人の死によって、彼女に直接献呈されることなく終わった。
「私をお赦しください。

イタリア王国を続投するの

慈悲深い父よ。お赦しを。教皇の前で、身を十字の形に投げ出して、皇帝は嘆願した。父よ、教皇は同情をおぼえた。切にお願いいたします」。涙ながらの皇帝を見て、,,うして皇帝の破門は解かれた。
しかし,,のことが教皇の命取りとなる。再び諸侯たちの協力を得た皇帝は、今度は別の対立教皇をたてる。教皇は皇帝を再び破門するが、今度教皇の目の前に現れたのは、哀願する皇帝ではなく、進撃してきた大軍だった。
教皇はサンタンジェロ城に監禁されてしまう。デは敗走し、ローマも占領され、教皇はなんとマティか逃げおおせるが、逃亡先のサレルノで一〇八五年に憤死する。
一方マティルデは、一〇八八年に二度目の結婚。相手は年下のバイエルン公ヴェルフ。夫も反皇帝勢力であり、彼女は皇帝への対立姿勢を弱めようとはしない。
皇帝は武力で蹴散らしにかかるが、皇帝自身の長男コンラッドが父に反抗し、勝手にイタリア王への即位を宣言してしまう。
一一○六年、ハインリッヒ四世死去。あとを継いだ次男ハインリッヒ五世とマティルデは、1111年五月にビアネッロで会談。
ようやく内戦状態に終止符が打たれた。マティルデは領地のほとんどを教会に寄進して、二一五年に七〇歳で亡くなった。
今でもビアネッロとその周辺の四つの城では、一三年の会談を記念して、教会を支え続けたこの稀代の女傑を称える祭りが開かれている。

 

ミラノに来てみたら

ローマ帝国を統治していた武人アントニウス映画ではリチャードバートンが演じますはFirenzeフィレンツェ-美しきシモネッタ若き狩人は花咲く緑の草原にたどり着く。
いずこかへ消えた雌鹿の代わりに、白いヴェールをまとった愛らしいニンフが彼を出迎える。
rラ·ジオストラ第1巻三七節,ポリツィアーノ,筆者訳誰が決めたか知らないが、「ルネサンスで最も美しい女性」といえば,シモネッタ·カッターネオのことと相場は決まっている。
シモネッタは一四五三年、ジェノヴァの貿易商の家に生まれた。奇しくも同年、後に夫となる人も、不倫の恋仲となる人もそろって産声をあげる。
また遠く東方では、ビザンツ帝国の最後の砦、コンスタンティノーブルがオスマン·トルコによってついに陥落させられた年にもあたる。
つまりは地中海の東半分の制海権が、イタリアの海運国家群からイスラム教徒のトに渡ったことを意味した。
ほどなく、ヨーロッパ経済の重心は、地中海から大西洋へと移動し始める。
まずはジェノヴァが大打撃をうけるが、このことはやがてイタリアの全身にもボディーブローのようにきいてくるだろう。
一六歳のとき、·ヴェスブッチの妻となる。もちろん恋愛結婚などではなく、シモネッタはマルコカッターネオ家にフィレンツェのヴェスプッチ家は商取引の得意先だからという理由にすぎない。
とって、この夫についてはほとんど知られていないが、ヴェスプッチという家名は、かれの又従兄弟のおかげで今も歴史に深く刻み込まれている。
その名はアメリゴ·ヴェスプッチ、アメリカ大陸の名付け親にほかならない。
シモネッタがヴェスブッチ家に嫁いだ一四六九年、フィレンツェではメディチ家の当主ピエロ·イル·ゴットーゾ痛風病み“が世を去り、そのあとを息子のロレンツォが継いだ。
ロレンツォはメディチ家主導のルネサンス文化の最盛期を演出し、そのおかげで当時ありふれたあだ名だった”イル·マニフィコ豪華なる人“は、やがて彼ただ一人をのみ指す言葉となる。

我々日本人にはちょっとまねが出来ないしかし実際は、彼の治世の間に、ルネサンス文化を花開かせたフィレンツェ金融業は衰退を始め、資本の大部分は不動産へと投下されるようになる。
祖父である老コジモが好んだ建築事業などにロレンツォが関心を示さなかったため、仕事の機会を失った多くの芸術家たちがフィレンツェを離れていった。
しかしロレンツォ自身は、恵まれた環境で育ち、一級の教育をほどこされ、政治や武術から詩作や音楽までなんでもこなす、万能型人文君主の典型となる。
彼には四歳下の弟ジュリアーノがいた。いかつい容貌の兄と違って優雅な美男子で、フィレンツェ女性たちの注目を!
身に集めていた。そんな彼が、ジェノヴァからやってきた絶世の美女と恋仲になるのに、特に時間はかからなかっただろリモー透き通る白き肌の彼女は、真白き衣にて覆われる。
衣には、薔薇や草花の模様が散らばる。花冠を戴く金色の髪はひかえめにも麗しき額に影をおとす。同、第1巻四111節一四七五年の1月にサンタ·クローチェ教会前広場で繰り広げられた馬上槍試合ジオストラは、ロレンツォの、ロジュリアーノのためのショーとなった。
メディチ家の家庭教師でもある当代随一レンツォによる、の詩人アンジェロ·ポリツィアーノが、このジオストラを題材に長詩を書いている。
ジオストラでは、選手は武装して馬にまたがり、全速力ですれ違う一瞬に、練習用の槍を相手の胸へと命中させる。
この派手なトーナメントには、10あまりの良家から子息たちが選手として参加した。

イタリアはフィレンツェ共和国

イタリアの社会も人もどうも同じような面があるようだ行列が街中を練り歩き、仰々しい演劇的な演出による幾多のセレモニーを重ねてようやく試合が始まった。
ファンファーレの中、しかし、かつてロレンツォ自身がジオストラで優勝したのと同じように、今回もジュリアーノが予定調和的に勝者となった。
そしてかつてロレンツォのミューズであるルクレツィア·ドナーティが、ロレンツォに月桂冠を載せたのと同様に、今回もまた、ジュリアーノに栄誉を授ける女王役は、シモネッタ·ヴェスプッチがつとめていた。
このジオストラによって、ジュリアーノとシモネッタは、それぞれフィレンツェの男と女として公認された。111歳の若き二人の若者は、このとき人生の絶頂にいた。しかしこの幸福は長くは続かなかった。もともと病弱だったシモネッタは、結核で翌一四七六年の四月に急逝する。
そしてその二年後、世を騒がせたパッツィ家の陰謀事件でジュリア-ノも凶刃に斃れた。
われわれの街で、一人の女性が亡くなった。ほとんどすべてのフィレンツェの人々が悲しみにくれた。そのことは驚·デ·メディチ、くにはあたらない。なぜなら、その人は美しさと優しさで満たされていたからだ。コ(ロレンツォメント[ソネット註解]アルグメント、-、筆者訳)詩人としてのロレンツォが、シモネッタの葬儀の様子を記している。
死してなお美しいと称える文からは、ロレンツオ自身も激しく悲しんでいることが伝わってくる。

イタリアではひと味違うということだろうかローマ文字へと発展していくのだが

シエナ潰えた世界一の野望雌狼に育てられた双子の1人そこには、単に愛する弟の恋人や、詩人に霊感を与えてくれるミューズに対する以上のものがありそうだ。
そのロレンツォの依頼だろうか、シモネッタもジュリアーノもすでにいない一四八0年頃、ピエロ·ディ·コジモがシモネッタをクレオパトラに模して描いた肖像画が残っている。
当然ながら一種の”想像図なのだが、人々の記憶がまだ強く残っている時期のものなので、意見を聞きながら似せようと頑張ったものに違いない。
ということは、美意識が異なる時代に生きる私たちにはあまりピンと来ないかもしれないが、この姿こそルネサンス女性の美の理想像なのである。
それにしても、シモネッタにも、そしてロレンツォの愛人だったルクレツィア·ドナーティにも正式な夫がいた。
しかし11人が為政者である兄弟の愛人だということは、当時の誰もが知っていた。
歴史上ではいずれの夫も沈黙しているが叶うことなら彼らの心情をこそ覗いてみたい。
私としては、Bon-arzoボマルツォ|怪物たちの宴たまげどこかに魂消るほどの驚異はないかと.はてしなく世界をさまよう者たちよ、ここに来たれ。
ここでは恐ろしい顔が象やライオンや熊、海鬼やドラゴンが汝を迎えん。
(ボマルツォの怪物庭園、エトルリア風ベンチに彫られた銘文、筆者訳)高速道路A1号をフィレンツェへ向かって1時間も飛ばしていると、マからヴィテルボ方面への出口が近づいてくる。


イタリアの社会も人もどうも同じような面があるようだ 過疎化が進んでいたあるいはしかし スペインの討伐に出かけるのでした

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