室内のレストランやバーレも同様です

美術館を見る暇もあらばこそ

実はその中身も全くと言ってよいほど異なっているので

石棺の蓋の部分に肖像彫刻が施されたイラリアの墓は、八年に一四制作された、·デラ·クエルチャの代表作のひとつである。
ルネサンス彫刻の大家ヤコポその三年前に亡くなった妻イラリアを、美しい大理石像として甦らせたのは、夫のパオロ·グイニージだ。
まるで船頭も漕ぎ手もないまま嵐の中を漂う船。(当時のルッカの状況を述べた、司法官ジョヴァンニ·テスタの言、筆者訳)グイニージ家の内部で血を血で洗う実権争いが続き、ルッカは混乱のうちにあっパオロの父が亡くなってしばらくは、当時のルッカを実質的に支配していたのはペストであり、多い日には一五人もの死者を出していた。
人文学者でもたパオロは兄弟間の抗争を力ずくで終わらせ、あるルッカの年代記者セルカンビが伝えるところによれば、指導者の地位についた式の数か月前に一11歳の若さでペストに斃れた。
途方にくれしかしパオロが最初に迎えるはずだった妻カテリーナは、候補として三人の女性を挙げた。

山岳部族の堂々とした姿を私はこの目で見たの

しかしうち二人は九歳と10歳の幼い少女でありたパオロに頼み込まれたミラノ公は、当時としては嫁ぎ遅れにあたる1111歳のイラリアをしぶしぶ選ばざるすぐにあと継ぎをえることを望んでいたパオロは、フィナーレの領主デル·カレット侯の娘イラリアは、二年後の一四〇三年二月三日、をえなかった。
こうして、ルッカで三〇歳のパオロと結婚式を挙げた。二00フィオリーニ相当以上の金品を身につけてもならぬといった倹約令があり、当時は絹製品を着てはならぬ。
結婚式の席にも一度に一二人以上の客を呼ぶことが禁じられていた。
それならばと、パオロは結婚式を三日三晩続けて客ついでに聖職者たちには休みを与えた。
を入れ替わり立ち代わり列席させ、新婚夫婦は領内を見てまわる旅に出ている。
この手の旅が10か月も続いたことは当時としても珍しく、式の後、おそまんえんらくペストが蔓延する都市部を避ける疎開の意味もあったのだろう。
長旅からルッカに戻ってちょうど九か月後の一四〇はかったように長男ラディスラオが生まれる。
ルッカは再び大宴会で賑わい、かがり火が夜ごと町中を四年九月二四日、照らし続けた売ナ·こ。
イラリアは再び妊娠する。当時の上流階級では普通のことだが、長男誕生からわずか五か月後に、子供を一人でも多く生まれたばかりの我が子を乳母たちに預け、自らは授乳することなく、月経を早めて次なる産むことを使命とする妻は、男性のみの医学界で産婦人科がタブー視されていたこと受胎に向けて準備するのだ。
当時の劣悪な衛生状態と、しかし、さん出産は安全からはほど遠かった。
このためヨーロッパでは長い間、ペストに次いで、女性の死因の第二位を産もあって、じょくし褥死が占めていた。
た長男を産んでから一四か月後に、今度は娘が生まれた。

 

たとえばエジプト文明

イタリアに帰ってきた法王しかし、それからわずか10日ほどしか経たない!こうして、イラリアはこの世を去る。享年わずか二六歳。幸せな結婚式を挙げてから、三年足らずの短い夫婦五年一二月八日、四生活だった。
九年のあいだに五人の子を産んだ。その後をついで、パオロの三番目の妻となったビアチェンティーナは、そして六人長女を産む。
身重なまま亡くなった。四番目で最後の妻となったヤコパは、しかし二女は産後まもなく死亡目のときに、あとを追うように自らも数時間後に亡くなった。
当時の妻たちはみな、若くして嫁ぎ、すぐに出産を期待されて、し、多くがそのために若くして命を落としていった。
二番目の妻イラリアとの生活は、パオロにとって実質最初の新婚生活でもあり、よほ短い期間だったにもかかわらず、残っている資料が少ないために、その人となりはほとんどわかっていないが、どに素敵な思い出だったのだろう。
妻たちひとり静かに眠り続ける。の中でイラリアだけがただ一人永遠の生命を与えられて、今日も穏やかな笑みをたたえて、Mantovaマントヴァ書く女日も欠かさず続けるとしたらど誰にだってできるだろう。
しかし、日に手紙を三通書くことは、それを四年間、一一つまるところそういうことだ。
うだろう……。

富を求めて世界中を行き交う男たちが集う場イザベッラ·デステという女性がその生涯でしたことは、ルネサンスの戦国時代を生き彼女は六五歳で亡くなるまでに、わかっているだけで四万通におよぶ手紙を書き残した。
しかしイザベッラはその唯一の武器をたよりに、彼女が手にした最大の武器は手紙を書くことだけだった。
る女性として、小都市マントヴァを率いて乱世を生き抜くことに成功した。
自らはルネサンスの代表的なパトロンの一人となって、マン北イタリアにおけるルネサンス文化の一大中心地にまで育てあげた。
トヴァ宮廷をして、小都市ながらも豊かなところで、大国ヴェネツィアと近隣諸国に挟まれているイザベッラが生まれたフェッラーラは、小規模ながらも洗練された宮政治的にも重要性を保っていた。
一三世紀からこの地を支配しているエステ家は、せいで、子どもたちがみな早くから複数の廷文化で知られていた。
イザベッラの父エルコレ1世も典型的なパトロン君主であり、ひとえにこうした環境で育てられたおかげである。
非凡な人文主義的教養を身につけることができたのは、言語を解し、同家はその半世紀ほど前からマントヴァ辺境伯一六歳でマントヴァのゴンザーガ家に嫁ぐ。
イザベッラは一四九年、しかし,八歳上の夫ジャンフランチェスコ二世はフェッラーラに劣らぬ豊かな宮廷文化を主導していた。
の地位にあり、けんせいそれまでお互いに牽制しあっフランスから大軍を率いてシャルル八世が侵入してきたとき、生まれながらの軍人だった。
ていた半島内の都市国家群はひとたまりもなく蹴散らされた。しかしフランス王がナポリまで行ってひき返してきたとき、北イタリアではようやく同盟軍が結成され、帰国途上にあったフランス軍に襲い掛かった。
ともあれ強敵に一矢を報いた対フォルノーヴォの戦いは双方が勝利を主張するあいまいな結果に終わったが、この戦いに明け暮れ、家庭をかえりみるこ総司令官を務めていたのがジャンフランチェスコ二世だった。
仏同盟軍にあって、イザベッラは芸術への傾倒を深めていく。文化に何の興味も示さない夫に対する反抗のように、ともなく、ひとつ眼のキュクロプスの王ポリフェモスが、ガラテアのすぐ後ろを走りはす。
そしてフィボスは、月桂樹に変わりつつあるダフネの後ろになります。
(書斎のための絵画についての指示の手紙一五○三年一月一九日、筆者訳)パトロンとしての彼女は,これでもかというほどに口うるさい。

イタリア各地の美しい景色や名所旧跡がふんだんに採り上げられていた

翻弄されていくイザベッラが彼女の書斎ストゥディオーロのために画家ペルジーノに描かせた

<愛と貞潔の戦い>

に関して、どこに何をどう描けと指示する、実にこと細かく長々とした手紙が残っている。
しかも最後は「多すぎる場合には端役の人物を減らしてもよいが、何も加えてはいけない」という文で締められる。
彼女はこの調子で各地の芸術家にさまざまな注文を出し、粘り強い交渉を繰り返して、優れた画家たちに指示どおり描かせた作品を、貪欲にコレクションに加えていった。
あなたの手によって描かれた、111歳ぐらいの幼いキリスト像をひとついただきたいというお願いを書いてから、もう数か月過ぎてしまいました。
(レオナルド·ダ·ヴィンチにあてた手紙、一五○四年一0月三一日、筆者訳)ミラノからフィレンツェへと戻るレオナルドが立ち寄った際、イザベッラは自らをモデルとしたスケッチを描いてもらっている。
しかしその後、彩色した肖像画にしてくれと何度も頼むイザベッラの執拗な依頼を、レオナルドは冷淡にも無視し続ける。
レオナルドは、「ならばほかの絵で良いから」とまで譲歩して追いすがるイザベッラの手紙戦術が、最後まで一切通じなかった数少ない一人である。
一五〇九年に夫がヴェネイザベッラの隠れた政治手腕が一気に発揮されるのは、芸術保護者としての才覚だけでなく、一五一九年に梅毒で夫が亡くなってからは、跡を継釈放後も病で少しずつ弱り始める時期である。

イタリア語のバールは発音が異なるだけでなく

ヨーロッパではながくアマルフィの発明と信じられていたツィアの捕虜となり、彼女はひたすら諸国の君主や実力者へ手紙を潛き続け、自国マントいだ長男の後見役として国家の舵取りに精を出した。
ヴァと祖国フェッラーラの維持に努めた。かつて勝利をあげた皇帝たちが凱旋してきたと中略、ローマにある古代の遺品や名高い廃墟を見て、最大の願いは一五七年七月七日、(義妹のウルビーノ公妃エリザベッタへの手紙、筆者きのローマの姿を思い浮かべることです。
訳)そのため古代ローマへの熱い憧れを若くから抱いていた。晩年彼女は古典復興たるルネサンスの忠実な具現者であり、おそらく、イザベッラは古代の遺物の間になって、イザベッラはようやく念願かなってローマに滞在することができた。
さき嬉々として興奮しながら観てまわったことだろう。を、が、幸福で平穏な時間はそう長くは続かなかった。おりしも悪名高きランツクネヒト皇帝傭兵隊ローマへしかし、今こそ偶像崇拝の禁止を実行に移さんと、圧倒的な武力を誇るドイツ兵は、ルター派であるため、となだれ込んできた。
多くの避難民を受け入れる一方で、永遠の都を徹底的に破壊し始めた。
この時コロンナ宮に身を寄せていたイザベッラは、抜け目なく立ち回っている。
混乱のなかで略奪されつつある美術品を自分のものとするべく、へと位を上げた。
晩年のイザベッラは第ゴンザーガ家は侯爵マルケーゼから公爵ドゥーカ息子の治世の間に、この稀代の女性パトストゥディオーロで、隅から隅まで自分好みに作らせた芸術品に囲まれて過ごした。
一線から退き、マントヴァは一層の輝きを増した。


翻弄されていく 意外と知られていないのが ミラノのサンシーロ·スタジアムはACミランとインテルのホーム

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