イタリア語も出来ないので

ローマ帝国発祥の地アイネイアスはたぐいまれな美男子

不思議な錯覚にとらわれた
それは言い換えれば、1の字を九0度ひっくり返して、さらに長い棒を足してTの字にするような、やや乱暴にも思えるものだった。
しかし、フィレンツェにだけは負けてはならぬ。ましてやそれがいかなることであれ、三四〇年に礎石が置かれたこの新拡張計画はしかし、開始後まもなく頓挫した。
一百年戦争で対決していたイギリスとフランスの王は、どちらもイタリアの銀行から借りたお金で戦っていたのだが、両者揃って借金を踏み倒す暴挙に出るこれでイタリアの金融業が大打撃を受けているところへ、一三四八年、黒死病ペストがヨーロッパで最初の大流行をみせる。
シエナに新拡張工事を続ける体力はもはやなく、ファサードの基礎部分だけを造ったところで計画は放置された。
シエナの野望ははかない夢と消えた。街には今も、ドゥオーモの横にこの新拡張案によるファサードが残っている。
ルネサンスが生んだ画期的な産物の名残である。それはサンタ·マリア·デラ·スドゥオーモの正面にある建物も、として活躍した。
カーラ病院という建物で、ルネサンス期には捨て子養育院出産時に産褥熱で母親を失った乳児や、望まぬ妊娠によって出来た子などは、成人するまで生存する可能性はそれまでほとんどなかった。
その状態を改善するベく、フィレンツェやシエナなどで設立された、「ルネサンスの赤ちゃんポスト」とでも呼べる施設だった。
また、ドゥオーモの中にある、ひときわ豪華なピッコロ1ミニ図書館も必見だ。
部屋の中央には、ラファエッロらルネサンスの芸術家たちにとって、古典的イメージの源泉のひとつとなった

<三美神>

の大理石像が据えられている三世紀に彫られたコピー
そして壁一面には、ピントゥリッキオと呼ばれた画家によって

<教皇ピウス二世の生涯>

が描かれている。
ピウス11世はピッコローミニ家の出身であり、法王にまでのぼりつめた彼を同家が称える内容となっている。
その中に、横たわる修道女の遺体に向かって、ピウス11世が祝福をさずける場面がある.彼女の名はシエナの聖カテリーナ。
イタリアでいまも国民的な人気を誇る聖女である。当時フランスにいた教皇のローマ帰還のために奔走し、一三八年に三三歳で亡くなるまで、聖体のパン以外の食物をほとんどうけつけず、たえず幻視を見たという逸話が残っていこの頃訳注:一四六一年の夏、シエナの福音者カテリーナを聖女の列に加えたいという臣民からの願いを受けて、教皇はローマにいる司教たちを召集して会議を開いた。

加えて、人物群はオーバーアそのようなポーズをとらせて静止画を撮ったような感じだ。
クションにもかかわらず、実際、シニョレッリはモデルにポーズをとらせていたのだろう。
伝記を書いたヴァザーリによる創作だろうにせよ、おそらくはペストで亡くなった愛す黙々とデッサンをするという伝説さえあるような男だ。
る息子の遺体を裸にして、見た目も心も美しく、愛してやまない息子がコルトーナで殺された時、ルカは深く悲しんだが、服を脱がせて裸にすると、全身全霊を傾けて、泣くことも涙することもなくスケッチした。
(ジョルジョ·ヴァザーリ、LeVite[芸術家列哲、一五六八年,筆者訳)サン·ブリツィオ礼拝堂の連作壁画の中に、「アンチ·キリスト偽預言者」という主題がある。
前景やや右の壇上にささやキリストを思わせる容貌の男の耳もとで、立つ、悪魔がなにごとか囁きかける。
彼のまわりには、その甘言に惑わされた人々が集まっている。しかし左奥では、偽預言者は天から真っ逆さまに墜落し、群衆も神の怒りに打たれている。
アンチ·キリストを描いた作品は珍しいが、これは明らかにある事件を背景としている。
それはフィレンツェで、修道サヴォナローラが民衆を扇動し、メディチ家を追放して政権を一時的に握った事件である。
彼は猛烈に教皇庁を批判し、フィレンツェは街全体で破門の宣告をうけた。度を越したサヴォナローラはすぐに民衆の支持を失い、シニョーリア広場で腹心の弟子11名とともに火刑に処された。
メディチ家が追放された時、同家お抱えの画家だったシニョレッリも弾圧をうけたに違いない。

イタリアは欧州連合の一員だから農業政策も欧州の統一方針に従うことになるが

この辺り特有の丘を越えて近道をしたこと

やはりメディチ家のお気に入りだった哲学者フィチーノが著書でサヴォナローラをアンチ·キリストと呼んで罵倒している。
おまけにここは親教皇派の都市オルヴィエート。シニョレッリは堂々と、この修道士をアンチ·キリストとして攻撃したのだろう。
手前にいるのがシニョレッリの自画像とされる。画面左端に黒い衣装で立っている二人の男性のうち、そして壁画を注意深く見ていると、地獄へ連行される人々なんとなく似た顔つきの悪魔がいることに気がつくだの主題画面の中央に、ろう。
鑑賞者の側を見ているところも同じだ。悪魔としてのこの自画像は、一人の女性を抱えあげている。当然、これから地獄へ落とされるべき女性だ。この女性はおそらくシニョレッリが愛した女性なのだろう。これまでにも指摘されてきたように、そしておそらくは彼女の不誠実さによって画家は苦しめられてきたに違いない。
なぜならこの女性と、前述したアンチの主·キリスト題場面の前景中央に描かれている女性もまた同一人物であり、そこでは彼女は裕福そうな老人からお金を渡されている。
つまり画家は恋人の売春婦のような行為を描いているのだ。ここには、かつて自分を苦しめた政変と恋人への怨念が塗り込められている。
そう、明るい色彩の下で、画家は猛烈に怒っているのだ。Sienaシエナ潰えた”世界一“の野望雌狼に育てられた双子の1人、ロムルスによって,ローマが建国されたという伝説はよく知られている。
もちろん、街の名に似たその名前もストーリーも、あとから創られたものだろうし、彼が弟レムスを殺害したという筋書きになっているのも、なにやら旧約聖書のカインとアベルの物語などとの共通性を感じさせるが、ともあれ、そのせいでローマには、狼の乳にむしゃぶりつく二人の赤ん坊のイメージがいたるところにある。
殺された弟レムスにはセニウスという子がいた。さて、セニウスが父の殺害をうけて馬に乗り、北へ逃れて、かの地で興したのがシエナであるという異説がある。
実際にはシエナはラテン人ではなくエトルリア人によって建てられた街だが当のシエナの人々だけはこの異説を信じていた。
雌狼と双子の姿を見ることができる。そこに主な広場やドゥオーモの前などそこかしこに、というわけでシエナでも、由緒正しいものであるとみなすシエナ人の強い大ローマの建国者の血をひく者によって創られた、自分たちの街が、は、豊かな時代を謳歌した。
シエナは-とくに中世において自負がある。それほどの自信を抱いても当然なほど、街は金融業今でも、シエナを本拠とするモンテ·デイ·パスキ銀行がイタリアを代表する銀行のひとつであるように、中世末期のヨーロッパにおける一大金融センターとで財をなした。

ミラノ中央駅発ラクイラ市に住んでいたけれど


昔ながらの伝統を変わらぬ状態で受け継いできたのだろうまたはほとんどの

山ひとつ越えたところにある隣町フィレンツェは、両者は都市国家同士が争う戦国時代にあって、シエナも一時期は肩を並べるほどの成功をおさめていた。
なっていたが,たいじシエナは神聖ローマ皇帝側のフィレンツェが一貫してローマ教皇を支持すれば、常に対峙しあうライバルであり続けた。
陣営の雄となった。文化面でも、両者はお互い一歩も譲らなかった。シエナが優美な形態と色彩を得意とする画家シモーネ·マルティーニらを輩出すれば、フィレンツェは厳格で写実的な線と空間を特徴とするルネサンス美術を花開かせた。
後世の目からはフィレンツェの芸術家ばかりが目立つが、しかし当時の工学などはシエナの出身者でほぼ占められていた。
シエナの大聖堂の建設は一三世紀前半に始められていたが、一三一六年、当時世界最大の規模とするべドゥオーモく拡張案へと変更された。
一方、フィレンツェも大聖堂ドゥオーモ、サンタ·マリア·デル·フィオーレの建設途中であったが、シエナの動きをうけて、一三三一年、さらに大きなものに拡張するプランへと変更された。
当時、ローマのサン·ピエトロ大聖堂もミラノ大聖堂もまだなく、両者が真の世界一を競っていた。
白と深緑による対比が面白いシエナのドゥオーモに、建設途上にもかかわらず、フィレンツェに対抗してさらなる拡張運動がまきおこった。
こうして、完成間近のドゥオーモの身廊部を翼廊にみたてて、あらたに長い身廊を建てるプランがスタートした。

室内のレストランやバーレも同様です

電話に向かってしきりにお辞儀をする日本人がいるのが面白いと言うから

それは言い換えれば、1の字を九0度ひっくり返して、さらに長い棒を足してTの字にするような、やや乱暴にも思えるものだった。
しかし、フィレンツェにだけは負けてはならぬ。ましてやそれがいかなることであれ、三四〇年に礎石が置かれたこの新拡張計画はしかし、開始後まもなく頓挫した。
一百年戦争で対決していたイギリスとフランスの王は、どちらもイタリアの銀行から借りたお金で戦っていたのだが、両者揃って借金を踏み倒す暴挙に出るこれでイタリアの金融業が大打撃を受けているところへ、一三四八年、黒死病ペストがヨーロッパで最初の大流行をみせる。
シエナに新拡張工事を続ける体力はもはやなく、ファサードの基礎部分だけを造ったところで計画は放置された。
シエナの野望ははかない夢と消えた。街には今も、ドゥオーモの横にこの新拡張案によるファサードが残っている。
ルネサンスが生んだ画期的な産物の名残である。それはサンタ·マリア·デラ·スドゥオーモの正面にある建物も、として活躍した。
カーラ病院という建物で、ルネサンス期には捨て子養育院出産時に産褥熱で母親を失った乳児や、望まぬ妊娠によって出来た子などは、成人するまで生存する可能性はそれまでほとんどなかった。
その状態を改善するベく、フィレンツェやシエナなどで設立された、「ルネサンスの赤ちゃんポスト」とでも呼べる施設だった。
また、ドゥオーモの中にある、ひときわ豪華なピッコロ1ミニ図書館も必見だ。
部屋の中央には、ラファエッロらルネサンスの芸術家たちにとって、古典的イメージの源泉のひとつとなった

<三美神>

の大理石像が据えられている三世紀に彫られたコピー
そして壁一面には、ピントゥリッキオと呼ばれた画家によって

<教皇ピウス二世の生涯>

が描かれている。
ピウス11世はピッコローミニ家の出身であり、法王にまでのぼりつめた彼を同家が称える内容となっている。
その中に、横たわる修道女の遺体に向かって、ピウス11世が祝福をさずける場面がある.彼女の名はシエナの聖カテリーナ。
イタリアでいまも国民的な人気を誇る聖女である。当時フランスにいた教皇のローマ帰還のために奔走し、一三八年に三三歳で亡くなるまで、聖体のパン以外の食物をほとんどうけつけず、たえず幻視を見たという逸話が残っていこの頃訳注:一四六一年の夏、シエナの福音者カテリーナを聖女の列に加えたいという臣民からの願いを受けて、教皇はローマにいる司教たちを召集して会議を開いた。

イタリアでは日本人がいない場所を探すのが難しいほどで


料金は高いと言うのが一般的なところです
カテリーナの生涯とその奇跡の調査を命じられた三人の枢機会議の出席者たちは一致して列聖に賛成の意を示した。
卿から調査結果の報告がなされた後、(フランチェスコ·ピッ

<ビウス二世の甥>

、Cornmentaru’第四巻より、一五世紀末。
筆者訳)コローミニVicenzaヴィチェンツァパッラーディオの劇場町ごとの特色がはっきりしているところだ。
イタリアの好きな点のひとつが、町の歴史や町並みの雰囲気に加え、県民性のようなものがイタリアにもある。
そのため、なんとなくフィレンツェは京都と、ミラノは東京、そしてナポリは大阪と似ていると言われることがある。
筆者はここに、シエナと奈良、ボローニャと名古屋といったペアを加えても良いように思っている。
町ごとの特色が強いのは、本書の冒頭で述べたように、なによりも景観が異なる点が大きく作用している。
実際、町にはたいてい、その町を代表する広場と大聖堂がある。それらは町のシンボルであり、写真が1枚あればかなりの人が町名を言いあてることができる。
こうしたシンボルが、塔や橋であることも多い。郷土愛を指す用語が、「鐘楼campanile」「カンパニリズモであることは象徴的だから派生したCampanilismo」そしてほとんどすべての町にサッカーチームがあるため、何層にも分かれたセリエリーグ内での戦いに、日本における夏の高校野球とよく似た地域ナショナリズムを見ることができる。

過疎化が進んでいたあるいはしかし

そしてスペインのアラゴン王家が血眼になって

町の景観が保たれている理由としては、古いものを壊さないことのほかに、その地域の建築家を好んで起用したという傾向が挙げられる。
こうして、フィレンツェは初期ルネサンスの大建築家ブルネッレスキの町となり、ローマはバロックの天才ベルニーニの町となった。
私たちはヴィチェンツァという町に見ることができる。そしてこうした事例の最も顕著な例を、そこは、後期ルネサンと言ってよい。
スの巨匠パッラーディオによる建築物がひしめく展示場、パッラーディオの劇場二○○八年にまさに街をあげての大々的な回顧展が開催された。
は、生誕五00年を記念して、ヴィチェンツァは、ヴェネツィアとミラノを結ぶ街道沿いの町として、古代ローマ時代に建国された。
中世にはほかの多くの都市と同様、自治都市国家コムーネとなったが、大国に挟まれていたため独立は長くは続かず、その後の町の歴史に派手なところはない。
現在は約10万の人口を専る中規模都市で、ヴェネト平野の肥沃さに恵まれ、また交通の要衝である点をいかした工業都市として栄えている一五○八年、隣町パドヴァの粉屋に生まれたアンドレア·ディ·ピエトロ·ダッラ·ゴンドラは、職人階級の常として111歳頃から石工·彫刻職人の工房に住み込みで奉公を始める。
二五歳で大工の娘と結婚。ここまではごくあたりまえの、典型的な一職人としての人生を送っている。
いくつかの建物を手掛けたにすぎない彼に急激な変化が訪れるのは、トリッシーノという人文学者が彼を見込んで、ローマ旅行に同行させたおかげである。
彼はそこで、威容を誇る古代の遺構の数々に圧倒される。

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