イタリアは欧州連合の一員だから農業政策も欧州の統一方針に従うことになるが

イタリア人の同僚に電話をかけてもらった

ローマ法王の長い長い権力争いの時代の幕開けは

野心家セル·ピエロはおそらく、すでにフィレンツェにも事務所を開き、ヴィンチ村には農場経営のために時おり通っていただけと思われる。
当時のイタリアでは地域経済の発展にともなって、都市周辺部コンタードにある農場を、都市生活者が遠隔経営する形態が広まっていた。
セル·ピエロ夫婦の名がこの文潛に登場するのは、あたかも被扶養者のように申告して税の減免をはかる意図に違いない。
実際、家族構成員の羅列の右側に、回答としての税の減免額が記入されている。
一人あたま二00フィオリーニずつ控除額が認められている中で、ただ一人レオナルドのところだけは空欄のままだ。
わずか五歳の坊やにだけ税金がかけられている理由はただひとつ、彼が婚外子だからにほかならない。
チェーザレ·ボルジアをはじめ、大活躍したルネサンス時代の婚外子は少なくない。
そのためレオナルドにもなんらハンデなどなかったような誤解があるが、しかし華やかな彼らは、あくまでも社会の最上層の出という例外にすぎない。
引用した文書ひとつからでも、一般的な婚外子たちを取り巻く状況が、決して楽なものではなかったことがよくわかる。
実際、レオナルドは婚外子であるがゆえに、公証人組合の規定によって、親の職を継ぐことさえ禁じられていた。

ローマ帝国崩壊後

そのそろばん知識階級の子息であれば普通あるはずの、といった基礎学習の機会もほとんど与えられずため、ラテン語や算盤アバコに育つ。
後に広範な分野に思索を拡げるようになって、彼は基礎知識の欠如に苦しめられることになる。
幼いうちに矯正されるはずの左利き筆記もそのままだ。しかし、むしろ人類にとっては幸運なことに、こうしてレオナルドは、なかば強制的に職人の道へと進まざるをえない。
けだし万能人レオナルドを育てたのは、婚外子という出自にほかならないのだ。
さて前述した文書でもう一点注目していただきたいことは、夫婦の年齢差だ。
レオナルドの両親の年齢差は九、祖父母のそれは111にもなる。当時はさまざまな要因が重なって、夫婦間の年齢差は社会の上層であればあるほど広かった。
そうなると、ただでさえ寿命の長い女性には、夫の死後に長い老後が待っていることになる。
そこで女性たちは、老後の生活費を結婚時にあらかじめ持っていった。
みじんつまり持参金とは、よく誤解されているような、妻側から夫側へのプレゼントのような意味合いは微塵もなく、いったん離婚ともなれば妻へ全額返却しなければならない性質のものだった。
現代の価値にすると、通常で数百万円、多い場合には数千万円にもなった。
婚機を奪う結果ともなった。女性を守るためのこのシステムはしかし、持参金を用意できない貧しい層の女性からは、おそらくカテリーナはそうした農家の娘だったろう。
それがレオナルドを産んですぐ、近くの釜焼き職人に嫁いでいるのは、ほぼ確実に厄介払いとしてセル·ピエロの家が用立てたからに違いない。
案の定、セル·ピエロとアカッタブリーガは見知らぬ仲ではない。だからこそアントニオも堂々と、申告書にレオナルドの母の名と、その夫の名まで書くことができたのだろう。
ともあれ、おそらく授乳が終わった直後に、産みの母は家からいなくなった。
父と新たな母は、ほとんどフィレンツェ何もしていないにいる幼いレオナルドを育てたのは、初孫を溺愛する祖父母であり、と書かれた叔父フランチェスコだったろう。

 

イタリア人のことだから

ローマ時代から受け継がれているペコリ!トラート.ちらも羊乳を入れて固める彼は出来の良い兄に似ず、同じく無職である父ののんびり屋気質を譲り受けていた。
彼はわが子のようにレオナルドを可愛がったに違いない。その後、正式な甥や姪が二人に増えても、彼は当時の慣習に反して、婚外子のレオナルドを遺産相続人に加えたほどだ。
こうして穏やかな愛につつまれながら、レオナルドはヴィンチ村で何不自由なく暮らしたはずだ。
そして今とほとんど自由に育てていったのだろう。変わらないだろう自然の中で、将来の自然科学者としての博物学的な好奇心をも、Tivoliティヴォリ愛の楽園すべてを手に入れた彼は、--。
たったひとつを除いては。プブリウス·アエリウス·トラヤヌス·ハドリアヌス(イタリア語読みではブブリオ·エリオ·トライアーノ·アドリアーノPublioElioTraianoAdriano)は、スペインに出自を持つ家系のもと、西暦七六年にローマで生をうけた。
わずか九歳の時に父が亡くなるが、父のいとこであるトラヤヌス帝のおぼえめでたく、ハドリアヌスは早くから帝国軍の中枢で経験を積んだ。
トラヤヌス帝には子どもがいなかったため、彼はハドリアヌスをかわいがり、自分の姪と婚礼をあげさせたおトラヤヌス帝が斃れたとき、シリア属州の総督だったハドリアヌスは、皇后によって後継者に指名される。

イタリア半島の背骨とたとえるが優れた軍人だった先帝の時代に、ローマ帝国の領土は最大版図に達し、各方面で異民族とのいさかいが続いていた。
新帝となったハドリアヌスはさっそく、交戦中のペルシアと休戦の話し合いに入った彼は中東地域の諸国と片っ端から休戦協定を結び属州の政情を安定させてから、ようやく戴冠をうけるためローマへの途についた。
先帝の死から、はや1年が経過してい有力な四人の将軍がよくわからぬ嫌疑をかけられて処刑されていた。
ローマではその間、自らの対立候補となりうる危険分子をあらかじめ排除するようなこのやり方に、都では批判がまきおこっていた。
しかしハドリアヌスは、すぐに帝国統治に優れた手腕を発揮しはじめる。
彼はそれまでの拡大路線を継承せず、なによりも帝国の防備と安定につとめた。
彼は二度にわたって広大な領土の巡察をおこない、各地の守備隊を整備してまわった。
この時、国境沿いに延々造らせた城壁の一部が、今もイギリス北部にハドリアヌスの長城として残っている。
彼は属州の地位向上にもつとめ、不公平感を軽減することで反乱の芽を摘み取った。
そして官僚制度をつくりあげ、法律を整備する。詩や絵画など諸芸術にも多彩な才を発揮し、ローマの文芸活動の保護につとめる。
とりわけ建築に秀でており、ハドリアヌスが改修を指示して現在の形となったパンテオンは、その後数世紀にわたって建築の奇跡とみなされルネサンス建築の重要な指針となった。

午後六時前に開くレストランもあるとのことで

ラクイラの旧市街に入る手前で私は足を止めた彼の時代に、地中海世界はまさに”ローマによる平和パックス·ロマーナ”を実現した。
彼は、すべてを手に入れたように見えた。しかし彼には後継者がいなかった配偶者がいるにはいたが、まるでギリシャ文化への傾倒を示すように同性愛者であった彼には、ついぞ子どもができなかった。
彼の愛は、ギリシャ生まれの青年アンティノウスイタリア語読みでアンティノーただ一人に注がれた。
かたわまだ10代のこの若者について、詳しいことは何も残っていないが、その比類なき美しい姿は常に皇帝の傍らにあった。
皇帝は誰からも邪魔されることなく、彼と愛を語りあうためだけに、ローマの喧騒からやや離れた高級避暑地、ティヴォリに別荘を建設し始めた。
彼はこの”ヴィッラ·アドリアーナハドリアヌス帝の別荘”を理想の楽園とするべく、巡察に際し領土の各地で目にしてきた、さまざまな美しい風景を再現させたところが一三〇年、ナイル川でアンティノウスが溺死してしまう。
愛する者の死によってのみ皇帝の願いが成就するとやからしわざいう神託を受けたため自殺したという者や、皇帝の寵愛を一身にうける若者を危険視した輩の仕業だと考える者もいた。
しかしひょっとすると、独占欲が高じたあまり、永遠に誰にもさわられないよう、皇帝が自らの手で愛する人の命を奪ったのかもしれない。
皇帝は来る日も来る日も泣き続け、ローマに帰ってきたときにはすっかり無口な人になっていた。

あっという間に街を占領してしまった

ほんの三十分かそこらで国境を越えてしまうので彼はアンティノウスの神格化を宣言し、彼の名にちなんだ新しい都市まで建設したデンティノポリス。
一三四年頃まで続けられた。一一八年から始められたヴィッラ·アドリアーナの建設は、一二〇ヘクタールあまりの広さは、歴代皇帝が作ったヴィッラのなかでも最大の規模を誇っている。
完成からわずか四年で皇帝が亡くなった後は略奪されるにまかされた。
すっかり忘れ去られて放置され、ハドリアヌス帝自らローマに造った霊廟は、その後幾度も役目を変え、今日ではサンタンジェロ城の名で知られている。
一方、ティヴォリに放置されたヴィッラは、一五世紀にはいって再発見され、発掘が始まった。
晩年、失意の皇帝は時愛する人との想い出にひたりながら歩いたに違いない。
彼が発注した、にここをおとずれ、数百体ものアンティノウスの彫像に囲まれながら。
わがさまよえる魂よ、かわいらしく魅力的な魂よこの体に間借りしたわが同胞よ今、おまえは立ち去るのだ。
蒼ざめた、冷たいむき出しのあの場所へ昔のような気晴らしなど、二度と無いようなあの場所へ(ハドリアヌス帝の辞世の句として伝えられる詩。
原文はラテン語。筆者訳はマカーレによるイタリア語版から)ティヴォリには、贅沢にも世界遺産がもうひとつある。
市の中心部にあって威容をほこる”ヴィッラ·デステエステがそれである。


ラクイラの旧市街に入る手前で私は足を止めた イタリアの社会も人もどうも同じような面があるようだ イタリアでも決める必要があるかも知れない車を運転中に携帯電話を使用することは

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