その東部に位置するエリトリア

夜になると郊外から来る見物の車で引きも切らない

身ぶり手振りで表情豊かに話しているといったイメージではないだろうか
どこからともなく人が集まってきてイタリアにいた頃、お昼過ぎになると、草サッカーが自然と始まるからだ。
公園にはいろんな国籍の人がいたが、もちろんお互いの名前を知るわけもなく、そんなわけで私は下手ながらもミウラと呼ばれていた。
日本人サッカー選手といえば三浦知良の時代だ。その後、ある時を境に呼び名はナカタにかわった。その年、ペルージャで中田英寿が鮮烈なデビューを飾っていた。それ以来、日本でもペルージャの知名度が一気に高まったが、外国人大学があるため、もとから日本からの留学生も多い街だ。
なだらかな丘が続くウンブリア地方の穏やかな気候と風景は、古くから外国人に愛されてきた。
諸国分裂時代にはれっきとした”外国人”であったローマ教皇たちも、政争の続くローマよりは平和なペルージャにいることを好み、実際にコンクラーベ教皇選出会議も五度ほどペルージャで開催されている。
ペルージャはその昔、エトルリア人によって建設された。その後、イタリア中部に点在していたエトルリア系都市国家群の盟主として、ラテン人と対峙する時代がながく続いた。
それもやがて、両民族の混血が進むにつれてローマの勢力圏に徐々に呑み込まれていった。
街にはエトルリア時代をしのばせる痕跡が、今も多く残っている。

そしてそこには、古代ローマの建築家ウィトルウィウスによる建築潛の解読をすすめるアカデミーが組織されていた。
永遠の都はまさに、古代文化の再評価運動としてのルネサンスの最盛期にあった。
ウィトルウィウスは、この芸術建築のことに関して書をあらわしたただ一人の古代の人だった。
そして私は、時の流れや野蛮人ゲルマン民族のことによる破壊にもかかわらず残っている古代建築の遺産について調べ始めた。
パッラーディオITQuattrolibridell’Architettura建築四孝第1巻、筆者訳トリッシーノの目に狂いはなかった。
ローマから戻ったアンドレアは、ヴィチェンツァの町の真ん中に建つパラッツォ·デラ·ラジョーネの改築案を提出し、一度拒否されるも採用にいたる。
こうしてパラッツォはバジリカ>として甦った。それはローマで学んだ古典建築の理想を形にしたものだった。
ローマ帝国が崩壊したにもかかわらず

イタリアも一昔前の英国などと並んでストライキでは有名で

徐々に姿を現していくこの巨大なモニュメントはたちまち彼の名前をこの地にとどろかせた。
どとうそのころ彼はすでに四〇歳を過ぎていたが、ここから彼の怒濤の建築家人生が始まる。
ヴィチェンツァで数多くのプロジェクトを精力的にこなす一方で、ヴェネツィアからは一五七五年に町を襲ったペストの鎮静を祈願した教会を建立する依頼が来た。
サン·マルコ広場から運河に向かつて右に見える、端正なイル·レデントーレ救世主の意>はこうして出来上がった。
六一歳のとき、ヴィチェンツァ郊外に代表作

<ラ·ロトンダ>

を完成。
それまで神の座する席の天蓋としての意味を与えられていたドームを、初めて民間建築に用いた例となった。
彼はいつしか、トリッシーノがつけたあだ名で呼ばれるようになっていた。
武芸の女神パラスそれはおそれ多くも、-輝ける·アテナからとられた、パッラーディオという名だった。
結果的に、ヴィチェンツァの小さな旧市街とその近郊に、一五を超える数のパッラーディオによる建築物が残された。
そのため、今も住民は誇りをもって、自分たちの町「創造者の町Cittàd’autore」と呼んでいる。

この時報は大いな驚きであったが


ミラノ公国やイタリア語

を一五七〇年に刊行されたITQuattrolibridell’Architettura建築四書は、ビジュアル重視の構成で建築分野におけるべ彼の様式の伝播に役立った。
イギリスのイニゴ·ジョーンズらスト·セラーとなり、古典的で秩序正しい彼の様式は、rパッラーディオ主義者と呼ばれる熱狂的な追随者を各国で生んだ。
パッラーディオの遅咲きの人生は、r始めまさにるのに遅すぎることはないことを示す好例として、我々に常に勇気を与えてくれている。
ヴィチェンツァを訪れたら、ぜひ

<テアトロ·オリンピコ>

も忘れずに覗いてみてほしい。
半円形の平土間を、すり鉢状の階段席が囲む構造は、古代ギリシャ劇場の系譜の上にある。
正面には、劇場のサイズとは不釣り合いなほど豪奢なス舞台正面壁が、観る者を威圧するかのようにそびえたつ。
カエナエ·フロンスパッラーディオはこの劇場が完成する前の一五八年に世を去っており、そのためプロジェクトはやはりヴィチェンツァの建築家であるヴィンチェンツォ·スカモッツィに引き継がれた。
彼は劇場裏の敷地が追加購入されたのを受けて舞台奥に延びる三つの街路の制作に取り組んだ。
これはアナモルフォーズ︵歪曲画という錯視技術を利用したもので、奥へ行くほど狭くなっており、実際よりもはるかに長く見える効果がある劇場は一五八四年に完成し、こけらおとしの劇《オイディプス》に用いられたこのアナモルフォーズ装置はその後もそのまま残された。
パッラーディオ本人があたためていたと考えられているこの奇抜なアイデアを、読者の皆さんにもぜひ体感していただきたい。
Perugiaペルージャ師匠と弟子日曜日になると友人とよく公園へ行った。

イタリア語も出来ないので

イタリアで最も美しい町の一つに選ばれたと知ったのは

どこからともなく人が集まってきてイタリアにいた頃、お昼過ぎになると、草サッカーが自然と始まるからだ。
公園にはいろんな国籍の人がいたが、もちろんお互いの名前を知るわけもなく、そんなわけで私は下手ながらもミウラと呼ばれていた。
日本人サッカー選手といえば三浦知良の時代だ。その後、ある時を境に呼び名はナカタにかわった。その年、ペルージャで中田英寿が鮮烈なデビューを飾っていた。それ以来、日本でもペルージャの知名度が一気に高まったが、外国人大学があるため、もとから日本からの留学生も多い街だ。
なだらかな丘が続くウンブリア地方の穏やかな気候と風景は、古くから外国人に愛されてきた。
諸国分裂時代にはれっきとした”外国人”であったローマ教皇たちも、政争の続くローマよりは平和なペルージャにいることを好み、実際にコンクラーベ教皇選出会議も五度ほどペルージャで開催されている。
ペルージャはその昔、エトルリア人によって建設された。その後、イタリア中部に点在していたエトルリア系都市国家群の盟主として、ラテン人と対峙する時代がながく続いた。
それもやがて、両民族の混血が進むにつれてローマの勢力圏に徐々に呑み込まれていった。
街にはエトルリア時代をしのばせる痕跡が、今も多く残っている。

イタリアのレストランで夕食を終えて最後のコーヒーになった時に


ミラノ間はそれまで3時間近くかかっていたのが時間以上短縮され
たとえばエトルリア時代の前11世紀頃に建てられたマルツィア門は、一五四0年にパオリーナ城塞が造られた際にその一部として取り込まれた。
今も、壁に門がそのまま埋め込まれているのがよくわかる。さて、イタリア美術の歴史の中に、ずばり”ペルージャの人“という名で呼ばれる画家がいる。
ルネサンス時代に活躍一四四八s-五二三がその人であり、本名をピエトロ·ヴァンヌッチというしたペルジーノあだ名に反してチッタ·デッラ·ピエーヴェという他の街の出身だった。
彼はフィレンツェのヴェロッキオ工房で修業をつみ同僚にボッティチェリやレオナルドらが1た、ペルージャに拠点その名を知られるようになる。
一四八〇年頃には法王から召集をかけられて、ローマへと旅している。
を置いてほどなく、システィーナ礼拝堂を飾るために、イタリア全土から高名な画家が集められたのだ。
このブロジェクトで声をかけられたという一点だけでも、当時のペルジーノの成功ぶりがしのばれる。
しかし現在はむしろ、ペルジーノの名前は”ラファエッロの先生としてしか一般には知られていない。
それも、古めかしい様式を頑固に守る保守的で高齢の師と、進取の気鋭に富んだ天才肌の若き弟子、という対比で語られることが多い。
このふたりは典型的な”出藍の誉れの例とみなされているのだ。ラファエッロ·サンツィオ一四八三s-五二〇は、ウルビーノの画家の家に生まれた。
ラファエッロの父であるジョヴァンニの、ペルジーノへの傾倒ぶりは彼自身が残した当時の文書からもよくわかる。
レオナルド·ダ·ヴィンチと同じように若く、同じように才気溢れるピエトロ·ペルジーノ·デッラ·ピエーヴェはまこと神のような画家である。
ジョヴァンニ·サンツィオサンティCronacarimata[年代記]、一四八三年頃筆者訳ラファエッロがまだ11歳の時、父ジョヴァンニが世を去る。
それよりも前に、父は尊敬するペルジーノの工房に息子を預けていた可能性が高い。
そうなるとラファエッロは10歳かそこらで徒弟奉公に出されていたことになる。
当時としても入門年齢としてはやや早いのだが、他に例がないわけでもない。
その頃四五歳前後になっていたペルジーノは、大工房をかまえてペルージャの画壇を支配していた。

海外に日本のキャリアの回線があるわけではないので

ローマを訪れた

作業工程別に徹底した分業制をしいた彼の工房は、驚くべき注文数をこなし、常に一定のレベル以上の作品を生産し続けた。
しかし、それは同時に、変化に乏しいという短所の理由ともなっていた。
ラファエッロも後にローマで、師匠とよく似た分業制による大工房を逕箏るようになるが、若い頃には大いに物足りなさを感じていただろうことは想像に難くなぃ。
ちょうどその頃、ペルージャの城壁の外では、新しい潮流が半島中を席巻していた。
レオナルドがミラノで最後の晩を描き、観る者すべてに驚嘆の声をあげさせ、ローマではミケランジェロが

<ピエタ>

の制作に着手していた。
一七歳ではやくも親方となっていたラファエッロは、その穏やかで美しい顔の下に、果てしもない野望を秘めて、フィレンツェやローマを目指して街を去っていった。
一方、ペルージャに残ったペルジーノは、外界の激動など無関係であるかのように、ひたすら優美で穏やかな作品を作り続けた。
いや、まったく無関心であったわけではなく、ミケランジェロの作品を見学に行ったこともあった。
しかし、あわれペルジーノは、口の悪いミケランジェロから「おまえの作品は“野暮ったいgoffo.」と公衆の面前で嘲笑されたとヴァザーリが列伝に書いている。
かつて愛した弟子は、遠い都で当代一の画家となっていた。

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