イタリアではカフェというと

イタリアでは当時

(収監翌日の日付のある、副所長ガンディーニの手紙、筆者訳)カリオストロが収監されていた井戸と呼ばれる特別房は、その名の通り手の届かぬ天井に穴がひとつあるだけの独房であり、食事もそこから上げ下げするだけだった。
これほどの有名人が収容されることは初めてで、しかも妖術をあやつる天才的な悪人という噂だ。
刑務所側も細心すぎるほどの注意を払った。パンは切ったものを渡し、先がふたつに割れた木の皮をフォーク代わりに与えた。
ナイフだけでなく、これらはすべて,フォークでさえも武器になると恐れていたためだ。
実際、すすを尿と混ぜてインクを獄中で自作するなど、カリオストロが抜け目のないところを見せたため、監視は厳格さを極めた。
そのころ、フランスで発明された気球が話題になっていたこともあり、フランス人のフリーメイソン仲間が空から救出に来るとの噂が飛び交い、見張り兵は夜空もむなしく監視し続けた。
牢屋の便器を空にする必要があるだろう。外部への排出孔がないので、もういっぱいになっている。一七九四年の所長の手紙から、筆者訳衛生状態はこれ以上ないほど劣悪だった。
気温も冬には零下110度を記録し、格子しか嵌められていない窓からは冷気が囚人を直撃した。
慢性的な栄養失調状態も手伝って、囚人は下痢と便秘に交互に襲われ、膀胱炎と尿道炎で苦しみはじもうろうけいれんめる。
汗びっしょりになって高熱がつづき、やがて意識朦朧となって痙攣を繰り返すようになる。
当時はまともな治療法もなく、囚人の激痛を緩和するために,薬草の浣腸を処方した医師パッツァリアの文書も残っていて涙を誘う。
一七九五年八月二六日、カリオストロ公ことジュゼッペ·バルサモ死去。
サン·レオに閉じ込められた日から、実に四年の歳月が過ぎていた。
しかし何かの手違いからか、彼の死亡を報告する日時が1日ずれた公文書が11通ある。
そのせいもあって、彼が逃亡に成功したとする説や、仮死状態から生き返ったとする伝説が残された。
あまりに苛酷な獄中生活を知れば知るほど、最後は気球に乗って、高笑いを残して夜空に消えていったと、つい想像したくもなるというものだ。
よみがえ11甦れ!カリオストロ。
その東部に位置するエリトリア

Assisiアッシジ-貧しき聖人の街SF映画スター·ウォーズのシリーズは、ジェダイと呼ばれる騎士たちの物語だった。
主人公のルークや父アナキンももちろんこの騎士身分に属しているのだが、彼らは一風変わった格好をしていた。
それらが柔道着や丹前といった日ルーカス監督が大の日本映画好きのせいなのだろう。
本の着物によく似ているのは、しかしジェダイたちが外出時にそのEから羽織るのは、たいてい茶色で丈長のシンプルな服であり、頭巾までついているところは、むしろフランチェスコ会の修道士の衣装を思わせる。
フランチェスコフランシスコ修道会は、ウンブリア州にある小都市アッシジで設立された。
会の創設者である聖フランチエスコも、この地で生まれ、この地で亡くなった。
聖フランチェスコは当時も今も、カトリック世界で最も高い人気を誇る聖人である。
そしてその人気の最大の理由が、彼の愚直なまでの奉仕精神と、従順で篤実な信仰心、そしてひたすらに禁欲的な清貧さにあった。
聖人は本名をジョヴァンニ·ベルナルド-ネといったが、父はフランスと織物取引をしていた商人であり、母は父がかの地で見初めたフランス人だったという言い伝えがある。
そこから、夫婦は生まれた子供を”フランチェスコフランス人”と呼んでかわいがった、という説明がなされている。
当時のイタリアは、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝の権力争いの渦中にあり、小さな国家を形成しつつあった各都市も近隣都市との勢力争いを始めていた。

大義名分として十字軍はキリスト教圏の諸侯からなる大規模な連合軍でありました

  • 五世紀までこの町を支配したのはロンバルディア人だった
  • 南北の対抗意識は激しく
  • イタリアの果ての風景を見た思い


同じ白人社会の中でも差別を受けて辛酸をなめた人が多いから


ミラノ市内にその一部が残っています

豊かな織物業者の子息として何不自由なく育ったフランチェスコも、成人してからはアッシジ軍の一人として、従者を従えて意気揚々と隣国ペルージャとの戦いの場へと向かった。
しかしアッシジは敗北し、フランチェスコも捕虜となった(当時、勝利した側は、こうした捕虜の身代金でひと儲けしていた)。
ようやく解放されたフランチェスコは、今度は南へと遠征する軍に加わったが、しかし途中立ち寄ったスポレートの街で、どこへ行くのかと問いかける不思議な声を聴く。
その瞬間から彼の人生は一変した。自分が持っていたものをすべて貧しい人たちへと与え始別人のようになった彼は、めた。
あげるものが尽きてしまうと、実家へと向かい、家財道具や商品を持ち出しては売りさばいて配り始めた。
さすがに怒った父から「今まで私がやったものを返せ!」と怒鳴られると、彼はすべてを地に投げ捨て、着ていたものまですべて脱いで返す始末だった。
彼は粗末な布をまとっただけの姿で、郊外にあった、壊れかけて放棄されていた教会をたったしんし一人で建てなおし始めた。
彼のこうした奇行に最初は皆が笑っていたが、その燃えるような熱意と真摯さにうたれる者も徐々に出始めた。
彼は二八歳の時、一一名に増えていた弟子たちとともにローマへ赴き、教皇イノケンティウス三世から修道会としての認可をうけた。

ローマ帝国を滅亡に追い込むことに成功したのは西ゴート族

男性名詞となって1個つまり単数ではカコ

小さき兄弟団、のちのフランチェスコ修道会は、従順,純潔,清貧をモットーに、祈こうして誕生したりと奉仕にあけくれる集団生活を始めた。
彼らは何も所有しないことを美徳とし、食糧がない時には托鉢をしてまわった。
こうした彼らの考えをよく示している。粗末な茶色の布や羊のなめし皮を身にまとい、縄紐をしめるだけのスタイルも、というのも、当時のベルトは、がまぐちと剣をぶら下げるために、丈夫な革と金属でできていた。
それを縄に替えるとい武力を行使しないという強い意思表示にほかならない。
うことはすなわち、私有財産を放棄し、聖フランチェスコは清貧を説くだけでなく、当時ほとんど隔離されていたハンセン病患者のための療養院を作り、また十字軍による戦闘を終わらせるために、イスラム教徒であるスルタントルコの太守をキリスト教に改宗できると信じ遠くシリアやエジプトにまで布教に赴いている。


ヨーロッパで

ローマではネロが火をつけた…という噂が町に流れたのでした

て、映画スター·ウォーズの中でジェダイたちが似た格好をしていたのも、彼らは武器こそ使えども、正しく清貧のうちに生きる人々であるという意味合いを持たせるために違いない。
そういえば、数年前にオーストラリアやイギリスの人口調査で、一0万人以上が信仰する宗派に記入して話題となった架空の宗教ジェダイ教が、その仮教義のほとん単なる偶然ではないだろう。
どをフランチェスコ会会則に負っていたことも、いと高き主よ、すべての称賛と栄光、栄誉と祝福はあなたのものです。
中略いと高き主よ、あなたは称えられます病苦に耐え、あなたへの愛のために受け容れている人々のために。︵聖フランチェスコ、CanticodelleCreature太陽の賛歌]、一二二六年以前、筆者訳こうして聖フランチェスコのもとには、各地から入会を希望する人が続々とやってきた。
女子修道会も誕生した。しかし長年の粗食と激務がたたり、彼は四三歳で死の床についた。しかし二六歳の時にたった一人で始めた活動は、亡くなる時には全欧に数万の修道士を抱え、1000を超える修道院を擁するほどに急成長していた。
すぐに列聖審査が始まった。これには普通は何十年もかかるのだが、フランチェスコは死後わずか二年で聖人となった。
そして彼の死の直後から、弟子のエリヤ修道士を中心に、彼の遺骸をおさめるための教会の建設が始まった。
中世ヨーロッパには、完成まで100年以上かかった教会も珍しくないが、サン·フランチェスコ聖堂は、なんと聖人の死からわずか四年でできあがった。
すぐに半島中から著名な画家たちが集められ、聖人をたたえるためのエピソードなどの諸場面が描かれた。
こうしてチマブーエやジョット、シモーネ·マルティーニやローマ派の画家たちが一堂に会した。
美術史上、これほど大規模な共同作業はかつてなく、各地からもたらされた様式や技法がこの地で一気に融合し、また各地へと散っていった。
なにもかもが驚異的なスピードで進行した。そうして、この小さな丘の街には不釣り合いなほど巨大な、人類の一大モニュメントができあがった。
一九九七年には大地震に襲われ、天井画の一部が崩落したものの、今も壁という壁が大画家たちの名画によって美しく飾られている。
その豪華な光景は、清貧の教えからはほど遠く、もし聖フランチェスコ本人が観ていたら苦々しく思うに違いない。

イタリアではカフェというと


イタリア杯や欧州杯

しかしアッシジが、かわることなく世界中から信者を集めつづける巡礼地であり、また大勢の観光客で賑わう世界遺産となっているのは、ひとえに、この地に生まれて死んだ、一人の貧しき聖人のおかげなのであるVinciヴィンチ誰が万能の人を育てたか一四五二年四月一五日に、私の孫、息子セル·ピエロの子が生まれた。
土曜日の夜中の三時だった。リオナルドと名づけ、ヴィンチ村のピエロ·ディ·バルトロメオ神父が洗礼を授けた後略
レオナルドの祖父アントニオによる記録、筆者訳レオナルド·ダ·ヴィンチが生まれた日付や時間までわかるのは、彼の祖父が公証人証譜に書き残してくれたおかげだ。
一介の人の手によるこうした文潛が几帳面に保管されていることにまずは驚く。
五00年後の今でも、レオナルドの父の名にあるセル”serは、彼が公証人をつとめていたことを意味する。
この職業はイタリアに今でも当時はあらゆる契約嘉や裁判記録の作成に欠かせない重要な存在だった。
あるがリターイオ、この後には、洗礼に立ち会ったご近所の人たちの名前がずらずらと続くが、村の名士の第一子誕生を祝うにしては、ささやかな印象だ。
それはレオナルドが婚外子として生まれたからにほかならない。先述した私アントニオ、八五歳。
婦人ルチア、私の妻、六四歳。息子セル·ピエロ、三0歳。息子フランチェスコ、村にいて何もしていない、1111歳。アルビエーラ、セル·ピエロの妻、二1歳。リオナルド、セル·ピエロの息子。今はアカッタブリーガ·ディ·ピエロ·デル·ヴァッカ·ダ·ヴィンチの妻であるカテリーナとの間に生まれ彼と、た婚外子、五歳。
(祖父アントニオによる、一四五七年の税控除申告書、筆者訳)この文書から、レオナルドの母がカテリーナという女性であること、そしてセル·ピエロと結婚することなく、ほかの男性に嫁いでいることがわかる。
セル·ピエロが正式な妻として迎えたアルビエーラは、フィレンツェ商人の娘でありほどなくフィレンツェに活動の拠点を移すセル·ピエロにとって願ってもない良縁だった。
たど実際ヴィンチ村は辺鄙な場所にあるごく小さな農村であり、今日でもその不便な交通アクセスのため、辿り着くだけでひと苦労だ。
対するフィレンツェは言うまでもなく、当時のヨーロッパを代表する金融の一大中心地だった。